Kaoru Fuji

YAMATO MANUFACTURING Co.,Ltd

創業秘話

設計業だった私が、製麺機を造るきっかけになったのは・・・

私が現在の会社を創業したのは、昭和50年の頃ですから、もう38年が経とうとしています。(2013年現在)
私はもともと、設計業をしておりました。メーカーから依頼された図面を書いていたのですが、ほとんどが、うどん製麺機の設計で、社会的な不景気から、なかなか思うような仕事には恵まれませんでした。

そのような背景の中で私が経験もしたことのない、この業界の仕事に携わるようになったのは、地元が讃岐うどんの本場であったためです。ただ図面を書いているだけではビジネスとしておもしろくないと感じ、製麺機の製造販売に特化するようになりました。

ところが、うどんは作ったことも全くなく、本当に未知の世界でした。
来る日も、来る日も、粉まみれになりながら、手打ちで麺打ちをしたり、家庭用製麺機を購入して麺打ち機の開発を始めました。
製麺機の製造販売を始めるに当たり、製麺機にとって一番重要な要素は、美味しい麺が作れることだと理解する事が出来ました。
したがって、創業当時より、美味しい麺の研究開発に打ち込み、創業間もない頃に麺研究室を設けました。

私は根っからのエンジニアだったので、安全性と使いやすさ、更に機械のデザインにもこだわりました。
当社の機械は、念入りな安全装置が施されています。
重要な部分は全てステンレスで精密に作られています。誰でも使いやすく工夫してあります。
そのために、価格が他社の製麺機より、高いのが唯一の欠点なのですが・・・。

これらが、現在も引き継がれ、当社は麺の美味しさと健康志向を一番大切にするDNAが引き継がれています。 もちろん、価格についてはこれからも大きな課題として取り組んでいかなければなりません。

当社の歴史の中でまず最初に、現在のベストセラー、「うどん用製麺機、真打」が誕生しました。

販売すらできなかった私が、ここまで成長させたわけ。

これが四国では売り上げを伸ばし、「これなら全国で売れるかも」、そう確信していたのです。
私はまず九州へ向かいました。うどん製麺機のように九州でもすぐに売れると思っていたのです。
ですが、私は販売に関しては、全くの素人でした。 売れなければ会社としては成功しない。そのため不慣れな営業を、失敗しながら繰り返し、何とかうどん製麺機を販売しようとしたのです。

しかし九州ではうどんより、ラーメンの方がメジャーでしたから、うどん製麺機はなかなか売れずにいました。
そこで私は、すぐにラーメン製麺機の製造に、とりかかったのです。
そして誕生したのが「ラーメン用製麺機、リッチメン」。
九州での販売がある程度、軌道に乗りだした頃、営業員を採用し、九州地区の販売を任せました。

次に関西地区での販売です。関西地区でも九州同様、営業員を採用し、販売を任せました。

そして関東地区。
今度は、うどん用製麺機だけではなく、そば用製麺機が必要だったのです。
私はそば製麺機の製造をすると同時に、そば技術の大家から、技術を教わり、それを製麺機に取り入れ、現在の坂東太郎が誕生しました。 そして、関東営業所を開設し、関東地区での販売も本格的になってきました。

その後、私はソウルへ向かい、ソウルおよび、その他の海外地区での販売に、熱心に取り組みました。
海外地区では真打の様な、店舗用小型機ではなく、麺工場用の大型機の需要が中心でした。 従って、海外地区の開拓を行なっていた頃には、既に工場用の大型機の開発を進めながら、営業を行なっていたのです。

このように失敗を繰り返しながら手探りで販売活動をするうちにその地域に必要な麺機が次々と生み出されていくこととなりました。
また、製造業でありながらも、どうすればお店が繁盛するのか・・・そういったことにも大変興味を持つことになったのです。

誰のための、うどん学校なのか・・・

もともと、技術屋だった私が、機械の開発の指揮をとりながら、販売の先頭に立ち、販売に精を出していたのですが、この業界には、当社が創業した頃、すでにほぼ全国制覇を終えていた企業や、古参の企業が立ちはだかっていました。

私は、これらの企業を抜いていつしか、業界トップになるのだという夢を描いて、一生懸命に取り組んできました。
ところが、これらの企業は、それぞれに得意の分野があり、各地にシッカリ基盤を築いていたために、なかなか業界NO.1の座には手が届きませんでした。 何年も何年も、地を這うような苦労をしながら、いつしかトップになりたいという夢に向かって、夢中で取り組んできました

それでも売り上げは伸び悩んでいたのです。
と、いうのも麺業界は毎年3000軒ほどのお店が新規開店しています。
ですが、それと同時に同じ数だけのお店が閉店に追い込まれているのです。
廃業することで中古機械が出回り、新しい機械の販売を邪魔していました。
ビジネスにとって、これは非常にまずいことでした。

私はそのことを踏まえて、一軒、一軒のお店を繁盛店にすることこそが、製麺機の売り上げアップにつながると考え、当社の使命を、麺専門店繁盛支援会社と改め、うどん学校が誕生したのです。
私は全国の麺屋を食べ歩き、お店の規模やメニュー、そして価格設定に至るまでを調査し、独自に分析をしたものを、経営ノウハウとしても指導できるまでになりました。

製麺機の製造販売をするのが、当社の仕事だと思っていた頃には、気付かなかった事に色々と気付くことができました。更に、麺専用塩46億年を開発したのもこの頃です。
大和体験セミナーもこの当時に始めたのです。
直営店亀城庵を開業し、うどん学校を終えた開業前の研修も、行ない始めました。

8年前には、ラーメン学校、そば学校を開校しました。
特にラーメン学校には、既存のラーメン店の店主が半分近く、生徒で参加する為に、大変な経験をしました。
生徒さんと講師と一緒に、徹夜した事も何度もありました。
その代わり、進化の速度も非常に速く、世界で最高のプロのラーメン学校として名前が通るようになりました。

そうしてついに7年前に初めて、当社の売り上げが業界でNo.1になったのです。
それから7年経過した今、当社はこの業界で完全なトップの位置に立つ事が出来ました。
長年の厳しかった奮闘を振り返ると、まるで夢のように感じます。